10.27.2011
先日ツイートした日本食材店の説明が違ったので大々的に訂正です!
欧州オーストリア首都唯一の日本人経営の食品雑貨店にて聞き取り。
前回従業員から聞いた話とは食い違ったので、今回はしっかりしつこく聞いてきました。
先日ツイッターでつぶやいたのだけど、その日の従業員は「震災以降日本製品は輸入できず、欧州で流通していません」と回答されたのですが、これは事実とは違ったようです。
(なんやそれ!)
ドイツなどには経済系に強い日本人ジャーナリストもおられるようなので、そういった方々のお話の方がきっと正確確実だと思うのですが、訂正もしておきたいので以下、聞いた話をまとめます。
しつこく食い下がってお話を伺ったのは欧州在住60年とかの名物社長、モダンなご老人です。
(※あくまで個人の聞き取り情報なので、気になる人はご自身で調べて下さい。)
現在欧州各地の日本食品店で散見されている品不足ですが、徐々に回復の兆しだそうで、実際今日は見慣れぬメーカーなれど日本産の商品がいくつか補充されておりました。
現在、EUは日本製品の輸入を「制限」しているのであって「禁止」してるのではない、その厳しい制限が現実的には日本企業の輸出見合わせを招いているという現状だそうです。
厳しい制限の中身はというと、例えばEU指定の12都県の原産地の除外。原料のひとつひとつの産地が指定12都県ではないという証明を、行政の管轄部に提出し認証を得ること。(この12都県は規制がはじまってから入れ替わったりしているそうなので、汚染値情報がアップデートされているようです)。そのためのコストパフォーマンスを勘案して(円高もあるので)規制が緩和するまで輸出業務を見合わせる業者が続出しているということです。その他にも、放射能汚染に関するEU基準での検査も勿論指定しています。そしてたとえこういった膨大なペーパーワークをクリアしても、EU圏に入る時点で検査を受けるのですが、その検査待ちがまた途方もないことになっているそうです。
そもそも放射能検査システムが欧州内でも限られたところでしかなかったので、船便なんかは検査待ちのコンテナが港にあふれている状態。それでも徐々に徐々に、検査を終えたものから流通しはじめているところだそうです。 (税関の放射能検査はサンプル検査だそうです)。
お店のシャチョーさんは「きちんとした検査をくぐりぬけているから大丈夫です!」と何度も繰り返していました。
で、大事なことなんですが、現在EUが日本政府に要求している規制というのが、シャチョーさんに言わせると「あくまで政治的な背景によるナンセンスなほどの厳しい規制」なのだそうで「それには理由がある」と言います。
シャチョーさんによると、厳重規制路線はEU側の、フランスなど原子力産業を推進したい国家のイニシアティブによるものであり、それは彼らにとっては“放射能はちゃんと規制していますよ、だからやっぱり安全ですよ”と言う政治的なモーションであるということ。原発推進するためには、汚染食品の恐怖や実害が「あってはならぬ」と言うことなのですな。(ここらへん、日本の推進派の方々に見習ってほしかったな。安全宣言するまえに厳重に・・・)。
もちろん原子力や放射能への世論の強烈な拒絶感というのもあって、それが厳重規制を後押ししている訳ですが、しゃちょーさんに言わせるとそれはチェルノブイリ・トラウマが深刻である所以だと。
当時は市場から野菜が消え、乳製品など摂取規制も厳しく、犬の散歩はするな、靴は洗ってから家に入れ、それはそれは「うるさかった」そうです。ちなみにウィーンとチェルノブイリの距離は、福島県と鹿児島県くらいだそうです。それでも当時、相当な放射性物質が降下し、公園の遊具は消防車で高圧洗浄、地面の土は何度もはがされ、そしてその消防車も除染洗浄。がしかし、「ウィーンの森」と有名な山野の除染はままならず、従って現在でもキノコ狩りの禁止区域がある現状はドイツも同様。これはわたしも当地の友達と話してて感じることですが、ここいらの人々はチェルノブイリ事故については被害者という意識が大なり小なりみんなあります。健康が脅かされ生活に様々な制限が生じた訳ですから、理解できます。
従って、欧州各地で日本製品の輸入流通が再開しはじめたのは9月末から10月だそうです。今流通しているものはEU独自の規制と検査を経ているので安全である、とEUと販売者は言っています。これをどう評価するかは個人の認識次第ですが、食べるも食べないもちゃんと知った上で、判断したいものですな。
個人的に思うところは、また記事をあらためてぼちぼち、書いてこうかと思います。
08.25.2011
長らくの不在 ー 欧州で“被災”したある日本人の、あの日からのこと。 -1-
[・・・正しいタイトルでないことはわかっています。自分は欧州に住んでいるので、あきらかに「被災者」ではありませんし、たとえばたまたま欧州滞在中に自宅が被災したとか言う訳でもありません。
が、自宅?Home?…
祖国が被災しました。Homeland について曖昧なイメージしかなかった自分に、あの日から確実に「何か」が起こりました。それを「ない」とは、誰にも言われたくないんだけど、果たして何が、起こったんだろう・・・。]
続きを読む…
02.23.2011
革命とか独裁者とか。こっそりと #egyjp に…。
ニワカとかシロウトとか。非常事態が状態化してくると、自然と言葉遣いが荒くなるし意地悪になる。暗闇でも目が慣れたら、色々見えてくるものだから・・・。
「独裁者」という言葉には遠慮してしまう。のには、理由がある。
何年か前、ドイツ語学校で「あなたの国の誰かについて」という発表テーマが与えられた。
このときのクラスはたまたま南米出身者が多く、ベネズエラとかエクアドルとかブラジル人などが全体の半分、残りがトルコ数人、ルーマニアなどの旧東欧圏。最初の数コマで、南米人達がシモン・ボリヴァなどいわゆる「国父」と言える人達の話を、それこそおとぎ話みたいにまとまった語り口で揚々と疲労するのを拝聴しながら、ぼんやりとうらやましいようなものも感じた。こちとら誰の話をしたら良いのか良い案がまるで思い浮かばなかったし、第一に自分の当時のドイツ語レベルで簡潔にまとめるとなると、幕末の志士の話なんかややこしすぎるし(苦笑)。
まぁ、わたしの話はいいのです。オチとしては杉原千畝の話をさせて頂き、まぁ先生以外には伝わらなかったけど自分なりの着眼も添えられたりしたので。その話はまたどっかで。
で、珍しくアジア系が少なかったそのクラスで、私以外で唯一のアジア人がベトナム人だった。
確かアジア食品店勤務の、派手でも地味でもないおばさん。
彼女はホー・チ・ミンの話をした。ホーおじさんの話。
クラスの中でも言葉数の少ない彼女が用意してきたスピーチは、短いけどきちんとまとめられていた。ネットから探し出してプリントアウトしたホーおじさんの住居の写真も貼って「慎ましく暮らした彼の住まいです。今は記念館になっています」とスピーチを〆た。
質疑応答になって、早口なルーマニア人(文献学の大学院生だった)がちょっとした質問をしながら、ちらっとホー・チ・ミンのことをder Diktator と言った。「独裁者」だ。
あわてて「いや、独裁者って言うのとは、違うと思うよ」と口を挟むと、「共産主義で何十年もトップの座に君臨してたんでしょ? 立派なDiktator よ」と彼女は切り捨てる。
いや君、独裁である目安となる政治犯の逮捕や粛正…といった賢そうな文脈で説明できるほど知識以前に独語力もなく、いやいや君とこのチャウシェスクとは違うのだよ、などと言える根性もない私は、ベトナム人の彼女と顔を見合わせながらおそるおそる、ホーおじさんを弁護した。幸か不幸か、ベトナム人の彼女はDiktator という単語をまだ知らなかったみたいで、目の前のルーマニア人が何をプンスカ言ってるのか肝を掴めなかったようで、そこから議論にはならなかった。
が、後味の悪さは今も尾を引く。
確かに、何十年もの間権力の座に君臨…すれば、それはもう「独裁者」の烙印を押されても仕方がないのかもしれない。ホーおじさんは自己犠牲こそすれど、たいへん良きリーダーで、敵対する人や虐げられた人々などいなかった…っぽいけど、たとえばムバラクだって、ある人々の目には単純にそう映っていたはずだ。あるいは、ホーおじさんが生きてる間に“不満分子”が蜂起していたら、どうだっただろう?
そもそも、良いことを何一つやらない為政者など居ないではないか。良さげなことをやりながら、ちょいちょいいい加減なことをやりおって、そのうち目も当てられないことになるのが政治でしょう? ナチスですら、最初は犯罪率を下げたり失業者数を減らず業績があったからこそ、人々が物凄い勢いで追従したのだから。ナチスは議会制民主主義下で「生まれた」。
かように民主主義とは厄介であり、
打倒独裁者の革命エレベータが自動的に民主主義を産み出すものでもなく、
完全邪悪な独裁者などいないのだから…と思ってたんだけど、、、カダフィ!!!!
02.5.2011
きのう、アルジャジーラで目撃したもの。
あれは、一種の奇跡だったんだと思う。いや奇跡というか、世紀の一瞬を目撃した感慨。
タフリール広場は抗議者があふれていた。すでに何十万人という人達が広場にすし詰めになり、軍が何重にも検閲しているという入り口には何百、何千という人達が殺到し、列を成し、その連なりがナイル川の橋まで伸びている。続々と自由と解放を求める人々がまさしく丸腰で集まる中、現地の正午、「金曜礼拝」がはじまる。俯瞰でとらえた画面は、広場へ続く通りを埋め尽くす人々、広場を囲むビルとビルの隙間にまでびっしりつまった人々、そしてぎっしりと人間がつまった広場をとらえる。その瞬間、その「あつまり」の真ん中から、一斉に群衆の波がさーっと靡く。まるでカーペットをべらんと広げたように、その波が無数の群衆に広がる。人々が跪いたのだ。群衆のカーペットが一斉に靡き、別のカメラは丸く背を丸めて跪く男達の、整然とした列を映す。
この時、【リベラシオン・スクエア】と訳されることのあるその広場で、今日この“特別な”礼拝に男達が捧げた「祈り」はきっとどれもよく似たものだったんだろう。礼拝をリードする長老達の言葉が紹介された。「この革命は、宗教によるものでも、イデオロギーによるものでもない。民衆そのものの革命なのである」。
何度か男達が立ち上がり、祈りの言葉を唱え、また跪き、あの独特の唱和が流れる。
リポーター達は異口同音に、その荘厳さ、厳粛さに感激して圧倒されると熱弁する。それはこれまで長らく“西側”が恐れ、古くさいと敬遠していたモスリム、回教の、それそのもの、「神髄」なのだけれど。
わたしはその時、コンピュータに釘付けになっていて、時にはtwitter のエジプト騒乱に注視している人達と、まったく気にしていなさそうな人達に向けて、アルジャジーラの英語放送からヘッドラインや情報を日本語にしてツイートしたりしていた。
お祈りが終わり、男達が立ち上がる。膝の埃を払うこともなく、握った拳を振り上げた男達がこんどはチャント、シュプレヒコールを自然発生させる。あっという間にその唱和は広場全体に広がる。数秒で広がったそのコールは、不可能なはずの人数の声をぴったりと揃えて、たったひとつの言葉をリピートする。デヒールだかダヒールだか、アラブ語がわからないとまったく聞き取れない。司会者はリポーターに興奮して尋ねる、「なんてチャントしてるんだ? なんて言ってる?」コンピュータの前でさっきから魅了されっぱなしの私もドキドキして答えを待つ。なんて言葉? なんて言ってるの?
レポーターは早口で何か言う。一瞬で幾通りかの英語の単語が並ぶ。すぐ日本語にして伝えたい、いくつかの英単語からまたいくつもの日本語が思い浮かんで上手く選べない。あらゆる言葉が英語でも日本語でも、ついでにドイツ語でも思い浮かぶ。それらのいくつかが音声を消して開いているBBCの画面にも現れる。アルジャジーラのヘッドラインに並ぶ。アラブ語の、たったひとつの単語を英語にするにしても、すでに幾通りかの可能性がある訳で、それが動詞だったりしたものだから、ちょっとした副詞を添えればその可能性は無限に広がる。無限は大げさか、いやしかし、それらの言葉がtwitter 上に、Facebook やあらゆるSNSに、CNNにも、そのほかの衛星放送局やそれらを無限に繋ぐCATVでも、何十という国へ、何百という街の、何千万の人々に広がっていくのを想像しきれないヴィジョンで思い描くと、それは無数、無限を感じさせるではないか。
あの瞬間、世界中の人々があらゆる手段を通して、タフリール広場でコールされるひと言、アラブ語の一言に耳を傾けた。そしてその瞬間、そのひと言が一斉に何十、何百という言葉に翻訳され、タイプされつぶやかれ、世界中に広がっていったのだった。
あれは奇跡だったの? 言葉の力。言葉を信じているから生まれる、奇跡。
01.23.2011
BBCのバラエティ番組で二重被爆者を「嘲笑した」件。
私は怖くて動画を見てない。それが「語られている通りの酷さ」だったらかなり凹むと思われるので。が、ある翻訳家の方が全ダイアローグを邦訳。とっても参考になる。@YukoAndHerCats http://bit.ly/g1E5JA
私は、アロハシャツでレイを下げた“おめでたい雰囲気”であろうと、言葉遣いがおよそ軽かろうと、賑やかなジングルやお粗末な事前調査ですっ飛ばしていようと、人生の重苦しさを、辛辣なジョークで笑い飛ばせると言うのなら、いくらでもジョークにすればいいと思う。
人生の重苦しさを、辛辣なジョークで笑い飛ばせると言うのなら。
もちろんこれは物凄い至難の業で、電波に乗せるテキストを常に想定小学5年生の国語程度に照準している、昨今の日本のテレビ業界ではほぼ全滅な芸当なのだと思う。
「ああ、こいつ、わかってくれとるのやな」と、当事者がある種ほっとする「笑い」。
上記の(あくまで当該司会者氏のファンであるらしき人の解説による)エントリーにて想像するに、今般のアロハのおっちゃんは常日頃の言動にて、相当の支持と共感を得る“悪い冗談”を飛ばせる吾人であったようだし、そういうキャラクターが英国においては今もなお複数健在しているらしきことは、承知している。Life must going on が、人間讃歌でもなんでもなくただひたすらに、ド深い諦観のなせる有難きお言葉であることをちゃんと共有できるキャラクター。…なんだけど、恐らく会場の、ヒマったらしくバラエティ番組の公開録画に参加する一般ピーポー、英語ネイティブ間違い無しなその人達にすら、今回はその彼の“深み”が伝わってなかったんじゃないかな。だからこそ、文言の上っ面だけで“嘲笑”じみた(品のない)ゲラゲラに、上記ブロガーの方でも不快な気持ちになられたのではないか。「いやマジ、すごいよ」的なコメントを重ねるアロハの兄ちゃんは、その空間の歪みを察知してたんじゃないかな。観てないけど(苦笑)。
そして、「これがナチスのホロコースト云々がモティーフにされていたら、絶対放送できていない」と言うのは、いささか問題をナナメに片付けてしまっている。
なぜならホロコーストがらみをネタにできない、というのはもっぱら政治的な文脈でもあるし、逆にもっと巧みに“悪い冗談”に昇華されたユダヤ人ネタなら、恐いくらいそこいらで試みられている。
“悪い冗談”を定義していないからちょっぴりズルいのでここらで〆るけど、最後に主意を。
二つ前のエントリーにものっけたように、わたしはユーモアを緊縛することには絶対に反対する。
当該バラエティが共感と諦観のシンパシーを実感させることに失敗しているとしても、「原爆ネタ」をタブーにしてはいけない。
笑い飛ばす、ということの心強さを、雀の涙ほどでも知る者としては、やはり今回もそれだけはほざいておきたい。
以上!
01.18.2011
Guten Morgen. Obwohl ist es noch ganz dunkel aber…
01.17.2011
毎年この日は「あの日」に思いを馳せるんだけど、いつも何かしら新しいものをえたり感じたりし続けている気がする。
昨夜たまたま読んだふたつの記事。ひとつは新聞の特集記事のアーカイブ。仁川という酷い土砂崩れがあった地域の人々の証言で、そこでは消防など公共の手が回らず、地域住民の必死の救出劇があったらしい。
助けた人、助けられた人、それぞれの中に取材を長らく拒否してた人がいる。その人達は自分を英雄みたいに語られること、美談として取り上げられることに抵抗があった。なぜなら助けた人の何倍もの、友人、知人、家族を亡くしているから。「いい話」の伝播が好きな人々が端折る、助かった人の背後の、助からなかった人々の記憶。
http://www.kobe-np.co.jp/rensai/200401umoreta/index.html
もうひとつの記事は、さいわいにも被害が少なく救出する側でいられた人の、生々しい記録。
「その時、3Pをしていた。」
http://d.hatena.ne.jp/LittleBoy/touch/20110116
http://podcast.tbsradio.jp/dig/files/dig20110114.mp3
それでも我々は生きていかねばならない。そのためには、手っ取り早く助かった人達のいい話だけ伺って、明日への糧としてさっさと眠りにつきたいもの。悲劇の中の小さな美談、それぐらいがちょうどよく、忙しい日常へ支障をきたさない・・・ことを、無意識に選択してしまっていないか。それゆえに「不謹慎な」物語を封印するって言う、過剰反応をしてしまうんじゃないのか。
この頃になってやっと、「中にはおにぎりやホットドッグを5000円とかで売りにくる人がいて、それでも食資が足りないから、人々は苦々しい思いをしながら子どものために買っていた」「語られないけど、暴行やレイプ事件だっていくらでもあった。人々は悲鳴や慟哭、助けを求める叫び声にある種、慣れすぎて麻痺してしまっていた」などと言った、負のエピソードも語られはじめている。
どれもあって、そしてもっともっとあって、「あの日」だったのだ。
真実を知りたいのなら、そのどれからも目をそらしてはいけないんだよ。
12.22.2010
もういい加減、人類はさんざんクリスマスも戦争も繰り返してきたのだから、そろそろ宗教と大量消費の無いクリスマスの過ごし方を発明できてもいいんじゃないかと思うよ。21世紀やで。ジーザスはもう誕生日祝いたくさんやろが!
12.21.2010
久しぶりに聴くトム・ウェイツよりも、山頭火が断然だな今は。
12.17.2010
コドモが迷子になった。午後の学校、Hort からバスで10分ほどの地下鉄駅ホームまで自力で来て私と落ち合う、という小さな冒険を毎日しているのだが、今日はバス路の半分くらいのところで乗客が全員降ろされたらしい。雪の多いこの街ではよくあることなのだけど、たまたま同じバスに乗っていた子連れのお父さんが、降ろされたバス停から待ち合わせの駅まで一緒に歩いてくれたらしい。が、この方が気を効かせて、待ち合わせの場所に母親が居ないからすぐさま駅の駅員詰所に迷子として届けてしまった。
私はと言うと、その頃すっかり到着の遅いチビを待ちわびて、地上とバス停の通路を何度も行ったり来たりしていたのだ。その駅は今工事中で、バス停から待ち合わせの場所までは仮設の通路が一本道なので、寒さしのぎも合わせて私は何度もバス停⇄地下鉄ホームを往復していた。トンネル一本みたいなところなので、そこを利用する限り行き違いになることはないから。そしてここを通ることが大前提の、待ち合わせだったから。
でも本日は、バス停ふたつ分ほど手前で降ろされて、事情を知らない誰かのお父さんが連れてってくれたので、いつもと違う乗り口からいつもと違う経路で待ち合わせの場所へ来て、そこで待つことをせず親切な紳士は駅員にチビを預けてしまった。ご自分も子連れで御用もあられたであろう。先を急ぐ方の判断として至極真っ当である。
その間にこれは遅すぎると判断したわたしは一度 Hort に電話して、チビがとっくにバスに乗ったとの説明を受け(Hortはカトリックの老婆 年配のシスターが指導員。故にイレギュラーな現象には常にパニックで対応)、駅の券売窓口に「迷子の相談はどこへ?」と訊きに行き、「あそこにパトカーが来てますから、訊いてみたら?」と言われ、はらはらしながらパトカーへ。そこにはチビもおまわりさんも居なかったけど、すぐ近くの詰所へ行こうと振り返った時、詰所からこちらへ向かっておまわりさんと小さい厚着の女の子、つまり我が子が歩いてきた。
チビは緊張と緩和とごちゃまぜの不思議な表情でわたしを見ている。わたしはやけに落ち着いて、片手で彼女を抱き寄せながら、静かにおまわりさんに「すみません、わたしの娘です。待ち合わせの場所にいないので探し回っておりました」と言った。おまわりさんは二人組で、やさしそうなおじさんと異常に二枚目な若いお兄ちゃん。おじさん巡査は母娘の様子を見てすっかり合点が効いて、ろくに名前も訊かずにOKOKと言うが、若い方は便宜上一応身分証明書を…住所を…と言う。おじさんの牧歌的な物わかりの良さもわかるが、若い巡査の危機管理意識もとても重要なので、お求めに従順に、機敏に応じる。その間、緊張が溶けはじめるチビが小さい声で途切れ途切れに「バスがロッハスガッセでとまっちゃったの」「おじさんと女の子と、歩いてきたの」と精一杯事情を説明してくれていた。おまわりさんは日本とは違って、なぁ〜んにも説明せず、なぁ〜んにも諭さず(気をつけて下さいね、すら言わなかった)良かった良かったと言って、住所と名前のメモだけ持って去って言った。
駅員詰所は誰もいないし、チビの身元もあらためず警察を呼んで引き渡したようだった。鞄を開けたら名前も学校名も私の携帯番号もすべてあるのだけど、誰も鞄に手を触れなかったらしい。おそらくそういったことはすべて警察署で行われるのが通常なんだろう。待っている間、みかんをもらって食べたらしい。日本的にお礼に寄るべきかと思ったがあいにく留守だったので(そこは空っぽなことが多い)、チビと私はそこをはなれた。
ゆっくりゆっくり事情を聞いてみると、チビは「ママはお約束を言いまちがえたのかな」と何度も思っていたらしい。緊張したけど、怖くはなかったし、パニックにもならなかった。バスが緊急停車した時から、状況を自分なりに把握しようと必死だったのだろう。私とやっと会えておまわりさんと別れた時、一瞬泣きそうになっていたけど、私の笑顔にほっとして笑った。結局、一度も泣かなかった。
この6年間で今までに二回、はぐれてしまったことがあるんだけど、今日はその二回ほどドキドキしなかった。ややこしいことになってしまった、とは思ったけれど「バスがロッハスガッセでとまっちゃったの」の一言ですべての謎が解けた。雪の多いこの街で今年は特に、バスや市電、地下鉄の故障、事故・遅延が多い。バスが途中で「ちょっとメンテナンスします、降りて下さい」ということはなくはないので、そう言う場合どうするか、細かく相談しなくては、とは思っていたところだった。(すべての危機回避をまとめて教えてもすべてを理解できないので、少しずつ「こう言う場合は」というのを教えているところなのだ)。
私の方が、頭が真っ白、とか最悪の場合を想像してしまい…、という混乱に陥らなかったのは、二つの理由があった。
ひとつは、この街では、まだまだ人々が周囲に配慮することを、無意識に信頼していたから。
きのうショッピングモールで、スカーフで髪を隠したムスリムのおばさんが物凄い音を立ててすってんころり、滑って転んだ。まわりは結構な人出だったけど、その一角に居た人々が足を止め、近くに居た若い女の子が声をかけ手を差し伸べていた。照れ隠しなのかおばちゃんは、立ち上がってもずっとなにかをしゃべり続けていたが、まわりの人々は皆、立ち止まって耳を傾けていた。やがておばちゃんのまくしたてる言語を解する兄ちゃんがベビーカーを押しながら声をかけ、人々はゆっくり立ち去った。良くも悪くも、ウィーンはまだまだそういったムード。
そこが無人でない限り、小さなコドモがアクシデントに遭遇した場合、周囲の誰かが必ず声をかける。雑踏の中で娘が途方に暮れてひとり泣く、ということは、「まだ」起こりえない。それを私はこの6年弱の間に無意識に感じていたのだった。
もうひとつは、チビへの信頼。「そそのかし」について行ったり、パニックになってあらぬ方向へ行っちゃったり、お店のディスプレイに釣られてふらふらぶらついたり、といったことはしない、という信頼。
「住所を書いて下さい」、と渡されたメモには、お巡りさんの字でチビの名前がフルネーム、一字違わず書かれていた。こちらの人には難しい名字らしく、なかなかヒアリングで正確に書き起こしてもらえない。それを見た時、こんなにちゃんと言えたんだ、とちょっと感動した。
しかし、ひとりで行動させる限りは、携帯電話でも持たせるかなぁ・・・。
12.15.2010
キッチンの窓のところに、つららが幾本も下がってる。今夜はつららでオンザロックしよう。
12.15.2010
one tips, friends. while you cook, when you’re cheer, put music on. for example.
http://itunes.apple.com/us/album/moms/id49626178
12.15.2010
吹雪の中、コドモは登校し吹雪の中わたくしは買い物し、そしてよそのばあさんがお孫さんに編んだという、それは美しい茜色のポンチョを譲り受けに、一時間かけて行ってきた。
この国の人々はまだまだプロヴィンスに無警戒なところがあり、オークションサイトやwebフリマなどに携帯番号も住所も公開、人によっては笑顔の写真まで添えておられ、そして「自力引き取りのみ」なんて条件の人が多い。
うわぁ、知らん人に家やら教えて取りに来るの待ってんのなんて、私やったら絶対イヤやわ、と思いつつ、子供服のお古なんかはとても助かるので利用する。小さな街とは言え、数ユーロを握りしめて、こんな吹雪の中。でも700円ほどで手編みのこれ、お得でしょ。

12.14.2010
think i should praise myself, instead of all.
12.13.2010
中欧の街に
越してきたのが2005年の4月だったので、いま6年目。
96年くらいからちょくちょくこの街には来ていたので知り合いもあって、紆余曲折あれどヴィザも今のところ獲得できて、あらゆる移民に比べたら順調な方だとは思ってきた。
しかし。
Einmal ist Keinmal という揶揄がある。
簡潔過ぎてちょうど良い日本語が思い浮かばないけど、英語なら Once is None でいいかな?
ここで言う einmal や once は日本語なら「こんど」。
つまり「こんど珈琲でも飲もうよ」「こんど電話しよう」の「こんど」は起こらない、ということ。これが当地の人々の典型だと言う。
こんど珈琲行こうよ、というのはほんとうによく耳にするんだけど、それらは(ほぼ)ぜんぶ、まぁ言ってしまえば社交辞令なんだそうで、実はそれをよく知らなかった私は耳の穴から豆鉄砲が飛び出す気分だったのだ。
こんど珈琲行こうよ、って言われたら、さすが珈琲好きの街の人だわ、と思ったりして、メールアドレス交換したら早速「平日なら昼間の方が都合つきやすいです」なんてメールして、そして実現しなかったらこっそり落胆してみたり。しかし大方は、モノを知らぬ強みでほんとに珈琲に押し掛けたり連れ込んだりして、実現にこぎ着けていたんだと思う。たぶん強引に。そう言う訳で、Einmal ist Keinmal な「国民性」を実感するモヤモヤを、なるべく意識しないように、これまで過ごしてきた。が、どうやら直視して来なかったモヤモヤは独りよがりでも疑心暗鬼でも被害妄想でもなんでもなく、奴らの典型、国民性だったのだ。オーストリア人めッ!
もちろん、そういった社交辞令は世界中の自称忙しい人々の間では、どこでもかわりなく交わされているだろうし、そんなことでいちいち鼻の穴から鱗を落としていてはいけない。のであるが、そもそも“社交辞令なんてFUCK”な世界であるはずの、アーなんとか、ミューなんとかって生業の皆さんが、そんなことで良いのだろうか・・・。
まぁ、他人がどうであろうと関係ない。成りたくない種の大人に成らないように。
当たり前にしたくもないことは当たり前にしないように。
と、いうことで、6年目にして、こんな街、うんこ! と思いながら、自分は自分でありましょうとココロの孤立をココロに誓う、30代最後の越冬ツバメ。